最近の若い人のコトバって凄く退化している気がする。良い例が「ワンチャン」というコトバの使い方です。元々に使い方は「何かにチャレンジして勝てる可能性がほんの少しある(もしかしたら、ひょっとすると)から、それに賭けてみる」的な場合に使う言葉でした。ですが、最近の若者は「
(もしかしたら、ひょっとすると) 」だけをワンチャンの意味に捉え使ってしまっている様です。

麻雀用語で使われていた本来の意味は「勝利の可能性」を現すコトバだったはずが、現在では「ただの可能性」を現すコトバに成り下がってしまっています。

なので「ワンチャン行ける」とか、昭和世代には意味不明な文章が成立してしまうのです。

コトバの現す意味が時代によって変化するのは良いです。でも、可能性を現すコトバをワンチャン一択にした場合、「もしかすると、ひょっとしたら、たぶん、おそらく、きっと、出来れば、~だったら、~の場合ならば、できる限り、そうできる様に努力します」などが全部ワンチャンで表現されてしまうのです。近年の語彙力低下の原動力はこのあたりに有るのかも知れませんね。

レミオロメンの3月9日という歌が卒業ソング?_ってという謎もこのあたりと同じかなと感じます。

とても良い詩で卒業を感じさせるコトバもない事もないのですが、普通に考えて3月9日は、卒業式のリアルな日付けより少し早いです。

詩をよく読めば結婚生活のスタートラインに立った喜びや、感謝や、意気込みをを自然に表現しているだけで卒業とは無縁の詩だと解釈出来ます。

詩や曲の解釈は個人の自由なので、この曲に卒業をイメージして個人の思い出として刻むことに対して否定する気はありません。なので、卒業ソングの定番も否定はしません。とても良い曲ですからね。

ただ、卒業式に日付が近いとか、サビの部分の歌詞の一部で全てを卒業に結び付ける最近の人の読解力の乏しさなど国語力の低下に危機感を感じています。

ワンチャンも3月9日も日本語をしっかり最後まで読まないせっかちな人が一部分だけを切り取り広まった感があります。「教科書が読めない子ども達」に書いてあったことが脳裏を掠めました。